島の石碑を巡る旅「んなま to んきゃーん」も間もなく連載100回。よくぞここまで続いているモノだと自分でもちょっと驚いています。けれど、さすがに最近は有名な石碑が少なくなりつつあり、バックボーンにある蘊蓄や物語を調べるのにとても時間がかかるようになっており、毎週掲載という限られた時間の中でなんとか格好がつくように仕立てています。そんな自転車操業ですので落ち度があったらすみません。叱咤激励訂正指摘などなど、忌憚なくお聞かせくださいませ。
さてさて、今回ご紹介する石碑ですが、県立宮古高校の前身のひとつである「宮高女」こと、宮古高等女学校(宮古女子高等学校)の跡地の碑です。
こちらの石碑は平良第一小学校の道向かい、宮古高校野球場のバックネット裏にあります。この場所にはかつて、宮古高等女学校がありました。石碑は宮高女の歴史を受け継ぐ、宮古高等学校創立70周年を記念して、1998(平成10)年11月16日に建立されました(周年記念のカウントは最も創立の古い県立第二中学校宮古分校が基準)。
宮古は昔からかなり教育熱が高く、1928(昭和3)年に離島初の中等教育機関として、沖縄県立第二中学校宮古分校が開校(翌年に旧制沖縄県立宮古中学校として独立。男子校)します。女子の教育施設についても切望され、機運の高まりとともに1936(昭和11)年に、やはり離島地区で初めての女学校が宮古群町村組合立として、宮古高等女学校が設立されます。さらに1938(昭和13)年から、学校運営の県立への移管を求めて陳情を繰り返し、1940(昭和15)年、ようやく沖縄県立宮古高等女学校となります。
しかし、翌1941(昭和16)年に太平洋戦争が始まり、昭和19年7月17日には、第28師団の司令部(豊5611)として校舎が接収され、生徒の疎開方針も決定します(集団疎開ではないため、家庭の事情などで島に残った生徒も多かった)。また、校舎が使えないため、家族ぐるみで疎開した人の家を借用してた仮設の教室で分散授業を余儀なくされていました。
やがで戦況が悪化して来ると、より暗い影を落として行きます。宮高女学徒隊として見習い看護婦として動員されます(鏡原小は陸軍病院。長南、上野小は野戦病院となっていた。他にも海軍管理下の気象台の補助業務などにも駆り出された)。
また、女学生あこがれのセーラーの制服も物資不足から簡易化(7~9期生の頃はセーラーの大襟がヘチマ襟に)されたり、卒業式の式典が中止されたり(1945年3月の空襲で接収された校舎が破壊された。個別に生徒の元を廻って証書を渡した)、困難に満ちた青春の1ページを綴っていたようです。
【動画】
宮古高女学徒隊 状況1 第二十八師団第二・第四野戦病院への動員
戦後、1948(昭和23)年の学制改革(633制の導入)により校名を「宮古女子高等学校」と改称し、翌年には新しい校歌と行進曲が作られました。この行進曲の作詞は
宮国泰誠、作曲(校歌も)
豊見山恵栄でした(後にこのコンビで
城辺中の校歌を作ります)。
ところが、宮女は学校の整理によって宮高(男子校)に統廃合されることが決定します。1953(昭和28年には宮女で最後の卒業式(宮高女9期、女子高5期。宮高女は4年履修)が、翌1954年には宮女の最後の入学式が行われます。
そして6月30日をもって、宮古女子高等学校は廃止。7月1日からは宮古高等学校(男子校→共学)に統合され南校舎となります。こうして宮女(宮高女)は18年間の歴史に閉じました。
宮高女が合流して、男女共学という新たなスタートを切った宮古高校ですが、面白いことに宮古に存在したすべての高校に、なんらかの関与しているのです。
1946年に宮高に新設された農林科と水産科は、翌年、宮古農林高校と宮古水産高校として同時にそれぞれ独立します(
双子高校)。
伊良部島に1984年に宮古高校伊良部分校が誕生します。その2年後、伊良部高校として独立しますが、宮古高校自体も、現在の那覇高校である県立二中の分校だったので、歴史的にみると伊良部高校は分校の分校と云えます。
また、宮古の高校で唯一、宮高を祖とせず、琉球政府立宮古産業技術学校として開学した宮古工業も、1987年に宮高から家政科の移管を受けています。
さらに、1992年に商業科を水産高校へ移管し、校名を翔南高校と改めますが、2008年には双子の片割れである宮古農林と合併して、宮古総合実業高校となります。
他にも、現在は廃止されてしまった島唯一の定時制高校も宮高に併設されていました。現在、宮高は普通科と理数科(特進クラスとしては県立では
ベスト10に入るレベル)だけとなっていますが、島の最高学府であることに変わりはなく、卒業と共に島を旅立ねばなりません。
学校の跡地という石碑だけに、宮高女の沿革にふれてみましたが、本当に気になるエピソード多く、すべてを紹介しきれません。
最後に当時の“JK”の「制服」について考察してみたいと思います。
開校当時の制服についての記録(新聞記事)によると、宮古高等女学校の制服と装具品は下記のように定められていたようです。
制服及装具品に関する記述によると、
服=セーラー服 上衣は夏は白地(ポプリン)、冬は紺地(サーヂ)襟は夏は水色、冬は白地の二条線とす(内側の線を廃部両隅で円形に巻いている)
靴=黒の踵廣靴(ハイヒールを禁ず)
靴下=夏は白、冬は黒(木綿)
ネクタイ=儀式用は白、平常は黒
パラソル=黒色、綿朱子(刺繍ナシ)
セーラーの制服は紺に黒と、特に冬服はかなり地味めだったようです。時代的なことを考えればそれほど不思議ではありませんが、装具品に「パラソル」と書かれているところはとても驚かされます。陽射しの強い南の島、日焼けの気になるお年頃ということなのでしょう。
他にも制服のラインについての記述に、二条線の内側の線が背部の両隅で円形に巻くというものがあり、どんな風になっているのか気になるので、ついでに色々と探してみました。
【1期生アルバムより:郡競技場でダンスをする風景。一期生は56名しかいないので、環を囲む生徒の数が多すぎるので60周年祭ではないと思われる】
まず、映像として1936(昭和11)年11月に群競技場(下里の馬場を整備)で開催された「博愛記念碑建立60周年祭」(
トラウツコレクション/宮古島最古の映像に関する一考察)から。宮高女はこの年の春に開校したばかりでしたが(校舎はまだなく、宮古支庁の一室を間借り。郡競技場を学校用地に取得しようとしていたが、最終的に下里大原の地となった)、一期生56名が式典の一環として催された「群連合青年競技会」に参加しており、軽やかにダンスを披露しています。このダンスの指導は大日本体育会体操学校を卒業した宮古出身者の砂川玄隆で、後に彼は稲村賢敷が宮高女の校長を務めた際に、教頭へ任ぜられています(昭和20年頃)。
「宮古高等女学校創設50周年記念誌」を開いてみると、セーラー服の制服姿は見えてきましたが、パラソルの存在と背面のラインについては残念ながら確認することは出来ませんでした。
しかし、何気にいい感じに面白かったので、勢いだけで制服姿と生徒の活動風景を、どどーんと紹介してみたいと思います。
※クリックで拡大します。
【左】1期生:紺地のセーラー服に黒いネクタイ(スカーフ)といういでたちです。アルバムのキャプションは「苗木取り」とありました。
【右】2期生:卒アルから。校舎前の築山にて。着物(袴?)姿は女性教諭と思われます。この頃、砂川フユが教師として在籍していたようです。
【左】5期生:夏バージョンの白いセーラー服。髪型が全員同じです。
【右】女子高2期生:バックに写っていた松林が軍に物資として徴用され、すべて切り取られています。また、セーラー服のモデルが若干変化しており、二本線から三本線になっています(現行の宮古高校のセーラーは三本線)。
【左】二期生:「明星」「平凡」的なアイドルスナップ。足元が裸足なので、どこかのビーチに遊びに行った時のものと思われます。
【中】二期生:半袖にパンツタイプのスクール水着(?)。みんなタオル・・・手ぬぐいなのも面白いです。
【右】一期生:上から、開校式(学舎がようやく出来た)。今や埋め立てられてしまったトゥリバーの浜に接岸している山原船(?)をバックに。ミニ通り池のピキャ(ウ)ズ(通尻~長崎の南)で水遊び?
【参考資料】
関東南秀同窓会/宮古高等女学校沿革大要
沖縄県立宮古高等学校/沿革